加藤清正が天正16年(1588年)に初めて肥後国に入国した際に通った道とされ、後に清正によって拡張され肥後国と豊後国との間の主要な街道となった。
江戸時代には、豊後国のうち街道沿いの久住(くじゅう)、野津原(のつはる)、鶴崎(つるさき)が熊本藩の飛び地となり、熊本藩の参勤交代は、肥後街道を通って陸路で九州を横断した後、鶴崎の港から海路で瀬戸内海を通って大坂に至り、東海道を江戸に向かっていた。これは、当時、大坂、江戸への最短経路であった。
熊本から鶴崎までは4泊5日を要し、大津(おおづ)、内牧(うちのまき)、久住、野津原の4つの宿場が整備された。後に、これらの間の坂梨(さかなし)、今市(いまいち)等にも宿場が設けられた。
|